”真艫(まとも)”でありつづけること
私は、“まとも”という言葉を、普段から思い入れをもって使用しています。
“まとも”とは現代では、漢字で「真面」と書きます。真つ面(マツモ)が転じて出来上がった言葉であり、真正面と言う意味を含んだ言葉のようです。
本来はまっすぐ向き合う姿勢を表している肯定的な言葉ですが、「〇〇ってまともだよね」と、仮に自分のことをこう言われたりすると褒められた気にならないのは私だけでしょうか?
しかし、それでも私はこの先もずっと“まとも”であり続けたいと思っています。
なぜ、私が“まとも”に執着し、今ではある種の拠り所にしているのか? それは大学生の頃に読んだ、司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」を読み、“まとも”の語源を知って、とても胸に刺さったからです。
“まとも”は、今の漢字表記である「真面」になる前は「真艫」と書いたようです。もともとは漁師が使う言葉でした。200年前の船は、風を帆で受けてその力を利用して前に進みます。船の先のことを舳先(へさき)と言い、後を艫(とも)と言います。
船は、真後ろの風を受けて進むのが一番効率良く、順風と言います。順風を真正面に受けて進むことを「真艫」と言ったのです。
また、司馬遼太郎氏は本の中でこのようにも記しています。
「船中の武者は臆病ぞ、陸の武者は時には虎を素手で撃つような勇気を出さねばならないが、船の武者はあくまでも臆病であらねばならない。臆病こそ勇気に優れるものである」
「菜の花の沖」司馬遼太郎
船乗りは、あらゆる現象に注意を働かせ、一か八かの勝負などはするな。いつも臆病であれ、という風に書かれています。
私は小さいながらも、不動産業界の一部として、役務を提供し、そして対価をいただきながら、社会に機能しています。
不動産業界の中で“真艫”でいるということはどういうことだろうか? としばしば考えます。
皮肉を含んだ言い方ですが、熟練の仲介営業パーソンは、表情が段々とポーカーフェイスに近づいていく傾向があります。利害が対立する立場に挟まれて、自身の確たる指針を確立させるより、力関係の強い側に迎合するように振る舞った方が取引が円滑に進むことを体得してしまっているからではないかと思います。したがって、取引を重ねるだけ、顔の表情がポーカーフェイスに馴染んでいくのだと思います。
わたしの会社の名称は、私の名字に“宅建士”という資格名に“事務所”をつけたものです。弁護士事務所や税理士事務所のように、問題解決を専門にする姿勢を込めた名称にしたかったからです。
クライアントに対して、私がポーカーフェイスでいては、本質の問題解決は務まらないと思います。私は、もはや取引を「まとめる」こと自体に生きがいを感じず、プロジェクトにかかわる方々と、共に感じる“充実感”こそ私の仕事の活力になっています。
これからも、相談事に対して真正面に向き合い、そしてまっすぐな心で臨むこと。そして、船乗りのように過信せず謙虚な心構えで常にいること。
これからもずっと“真艫”であり続けたいと思います。